プロセスと結果

目標を立てる。
その目標に向かって努力する。
手段ではなく、目的が、目標達成がすべてだ、と考える。
結果が出なければ意味がない、とする考え。


これに対し、プロセスが重要だ、という考え。
そこに至るプロセスの中で、人は学び、成長する。
ひとが人になるプロセスと結果。
人となる結果として、点数主義、評価主義といったものが出てくる。
「評価」するという行為。
それを客観的に評価する基準として、数値が問われる。
何パーセント達成か、何割が目標に届いたか。
その結果を求めて成果主義が発生する。
目標達成という至上命題がでてくる。
結果主義というか、終わりよければ全て良しということに。



地球の存在を思う。
宇宙の、太陽の、月の存在意義を問う。
なぜこうした存在はあるのか。
その目的、あるいは目標は?
自然界に存在するものに、目標値とか結果とか、問われるものがあるのだろうか?
今年の季節は、目標値に80%達したとか、
太陽が半分しか仕事をしていないとか。
その結果、評価して、罰を与える?
人間が作り出した評価。
その評価を自然界に適応するとおかしな事になる。


自然界はただ「ある」わけで、「あるがまま」の状態が続く。
結果に対して喜んだり、困ったりするのは人間だけでは。
あるがままを受け入れず、ひたすら自分の目標のみを追求する。
成果だ、結果だ、売上だ!!
そのために努力だ、根性だ、と叫びながら。
これって、なにか変だよね。
少なくとも自然界に適応した生き方ではない。
なにか欠けている。
人間だけが全てで、この宇宙を仕切っているといった思い上がりのような。
傲慢不遜の思いこみのように感じる。



結果のみを求め、目標のみを追求し、プロセスを顧みない。
道の途中で出会った人に無関心、ゴミは捨て、やたら食い散らかし、
自分の要求を満たすため、やりたい放題。
それでも、目標に到達すればゴールで喜ぶ。
目標を達成しさえすれば、手段は選ばない。
こうした考えのなれの果てが、
今の金融危機、雇用不安、社会システム崩壊に繋がるのでは。


プロセスに生きる。
昨日読んだ「調停者ハンドブック」の巻頭言のなかにあった。
カウンセリングも、いまここにいることで、プロセスを重んじる。
過去の記憶でもなく、未来の目標でもない。
いま、ここで起こっていることに、すべてを集中する。
目の前のひとの声を、心を、魂を聴く。
そして、その声を、気持ちを受容し、共感し、自分をそこに置く。
自分をそこにあらしめる、ということなのだろう。


「自己一致」という概念が、いまひとつわからない。
そこにある自分を、そのまま、あるがまま認めるという意味なのだろうか。
あるものを、あるがままに、事実として認める。
自分を、自分が、自分として認識する。
難しくいうと、こうなるのだろうか。
プロセスに生きる。
プロセスに集中する。
それが、「いまここ」状態なのだろうか。



魂の声を聴くことが、自分自身の真の姿をとらえることらしい。
体ではなく、精神や心ではなく、魂の声だ。
自分の中にいる複数の自分。
ある行動をしながら、それを批判的に見ている自分。
なぜ行動するのか、行動しないのか、見つめている自分がいる。
そして、この両者を見つめている自分もいる。
それぞれが「自分」だと、混在した自分が考えている。
ある人はそうした自分に気づき、本来の自分を求めている。
ある人は、混乱し、自暴自棄になり、誰かにそそのかされたと話す。
混乱が進むと、人は精神を病む。
行き過ぎると、その存在に耐えられなくなり、自らの体を滅ぼす。
体の声、精神の声、魂の声、これらを総称してこころの声と考えると、
日々の行動がわかりやすい。
人の心に響く声、これを聴きわける努力。
それが、内省、反省、瞑想、黙想などと呼ばれる人の行いなのでは。
いずれも結果ではなく、プロセスをチェックする行為だ。