見れども見えず

「見る」というけれど、
人は自分が見たいものしか見ていない。
見る、観る、看る、視る、診る、覧る、
いくつかの漢字が変換で出る。


止観と言う言葉もある。
観るのを止めるということ。
見えるとは、どういう状態なのだろう。
見ている、見ていた、という状態。
見ている対象は何なのだろう。
聞くことよりも、見ることの方が範囲が広そうだ。
目という器官で、網膜に取り込まれた映像から、
人は何らかのアクションを起こす。
考える、動く、話すといった行動がともなう。


カメラと同じような視点で考えると面白い。
カメラがとらえた映像、デジカメの映像は、
見ている状態といえるのか。
何を、写しているのだろう。
見るということは、何を見ているのか。
全体か、スポットか、両方か。
細部にわたって、見えるのだろうか。
自分が見ていることと、他の人が見ていることは同じなのか。
同じであるとすれば、どのように検証されるのか。
「人は何を見ているのか?」
結構、奥が深そうだ。


空即是色、色即是空の世界だ。
在ると思えば在るが、それは「空」なるものだ。
見えていると思っても、それは幻想、空なる世界。
実体がない、存在しない世界を、
自分の空想で作り上げ、見ているのか。
幻想を、心の中で作り上げ、
それを見ていると勘違いをしている。


「心ここにあらざれば、見れども見えず、聞けども聞こえず」
とは、孔子の言葉。
心の状態で、見えたり見えなかったりする。


人は見たいものを見るともいう。
マスコミの在り方は、その典型かも知れない。
マスコミ人が見たいと思うもの、聴きたいと思うものを、
映像を通して流している。
これって、考え過ぎ?