定義と認識〜こころのチューニング

明け方、「定義」という言葉があった。
定義とは、「○○ということ」を規定すること。
この定義にしたがって、考え、行動している。
その定義にしたがい、意味をみつけ、
結果に喜び、悲しんでいる。
物事の前提として、自分自身があるモノを定義づけ、
意味をおき、価値をおいて、生きている。



定義が変われば、価値観や生き方も変わる。
人それぞれに定義は異なる。
価値観のもとは、その人の価値への定義なのでは。
何を価値あるもととして考えるのか。


さらに、「考える」という作業も、定義の上に成り立っている。
「考える」ということは、言葉が前提だ。
言葉は定義の固まり。
名詞、動詞、形容詞などをつなぎ合わせ、意味をさぐる。
ここでは、それぞれの品詞の定義〜意味の認識が一致する必要がある。
共通語として使うためには、使う意味が共通認識としてなければならない。
コミュニケーションの土台となる前提だ。
品詞の定義〜意味の共通認識は、意外と難しい。
それぞれの認識は一つではなく、だいたい同じというレベルだ。
これも定義の問題だ。


言葉を極めつくしたとしても、限界がある。
言葉は、すべてを語りつくせない。
当然なことで、言葉はその奥にある人の想いや思いを表す一手段。
人の想いの奥にあるもの。
それがポイントで、その想いはかろうじてその人のもつ「定義」を使って、
外に出てくる。


で、ここで言いたいのは、その「定義」を見直すということ。
あらために、自分自身が持っている「定義」の点検が必要ということに気がついた。
それだけだが、これは意外と意味があるように思う。


考えの前提としている、
「・・・がなければ、○○できない」とか、
「・・・なので、××だ」といった考えが、崩れることになる。
条件と結果なんだが、それぞれがその定義の点検が必要で、
さらにその因果関係さえも怪しくなる。
危うさの上に、考えながら、生きている。
これがこれまでの人生のような感じだ。


自分の内なる声に、心をあわせると知らされた。
自分の内なる声は、自分の静かなる、平らかなる状態でしか聞こえない。
声を聞くという作業も定義することが必要だ。
声を聞くとは、周波数を合わせることから始まる。
自分の内なる声を聞き取れるようになるには、
そのレセプターとしての、受信機としての心をチューニングしなければならない。
チューニング、つまりは定義し直すことになるのではないか。
心のチューニング、これが「定義」を見直すことと知らされた。


「こころ」は「ことば」を超えた存在だ
「こころ」は、「ことば」だけでは表現できない。
「こころ」の声を聞き取れる自分になること。
内なる「こころ」の声だけが、真実を語る。
「いま」「ここ」にある「こころ」の声を聞きながら生きる。
それだけでいいのだ。
それが「あるがままに生きる」ということ。


神とひとつになれるとしたら、それは自分の「こころ」の声を聞けたとき。
「こころ」を通して、自分の内なる声を聞けたときだ。