意識

人の意識とは何だろう。
意識して、〜をするとか、意識的に〜をやったとか表現する。
意図的ということばもある。
意識ということばを考えている。
さまざまな事象は意識の結果として現象化しているらしい。
人が意識し、その結果として物質化し、認識される。
意識の中にあるアイデア、イメージが、言葉になり、形になり出現する。

いま見ている、あると思っている目前のモノは、意識が創りだしたもの。
個人、社会、国家、世界というスケールで起こることは、
どうやらそれを構成する人々の意識集合体の具現のようだ。
意識はどこにあるのだろう。
こころと意識の関係は。
さらに、意識と思考、考える、思うとの関係は。
魂、精神、気持ちを含めた感情との関係は?


自然の意識、存在するものの意識、人、動物、植物の意識。
そして極めつけは、神の意識、宇宙の意識へといたる道程だ。
意識において共鳴することがポイントになる。
自分の意識と、ほかの人との意識が出会ったとき、
コミュニケーションが成立する。
善し悪し、好き嫌いなどの問題は別として、意識の共鳴現象が、
その人との親近感や疎外感になるようだ。
近い意識の人と、友人になったり、協力し合ったりする。
類は友を呼ぶとは、同じような意識の人々の引き寄せ現象だ。


どういう意識を持つか。
どういう意識状態で生きるのか、在るのかが問われる。
あくまでも意識の問題、存在の問題に帰着する。
自分が、いま、ここで、どういう意識で在るか、いるかが問題だ。
ただそれだけだと知らされた。
自分の存在、意識としての存在。それだけだ。
自分が「幸せ」と意識すれば、幸せになれる。
自分が「愛である」と意識すれば、愛することが可能になる。
最初に「意識ありき」ということのようだ。
ここまで考えてくると、
神の存在、宇宙の存在への理解がすすむ。
神は意識の存在として、ありてあるもの、ということのようだ。
英語で "I am that I am." というが、
意識体として存在する、ということのようだ。


神との出会い、神を識(し)るとは、
神の存在を、意識として識ることから始まる。
意識として識るとは、神の意識に自分の意識を合わせること。
意識を合わせるとは、意識に共鳴すること。
つまり、同じ波長に自分自身がなればいいということのようだ。
自分自身の意識をチューニングすることで、自分の意識を共鳴させる。
これが瞑想、メディテーション坐禅といった修行で目指すこと。
心を静め、平らかにし、意識を研ぎ澄まし、自然の宇宙の意識を識る。
この歩みが、人がいにしえから探し、求めた境地ということのようだ。
宇宙の意識〜こころと共鳴できる自分になること。
これこそが自分がこの世に生を与えられた目的。
宇宙、天、神、サムシンググレート、呼称はどうでもいい。
宇宙において、人を超え、あらゆる存在を超えた存在。
その究極の存在の意識を識る、声を聴くことこそが、人の究極の目的だ。


神を識る、神を信じる、神と出会う、表現こそ異なるが、
こうした事実を知り、会得すること、
神の意識と共鳴することが「悟り」だ。
覚醒した人だ。
目覚めた、生まれ変わった人としての誕生ということだ。
意識、このことばがキーワードのようだ。


>リンク
ネット上の言葉から、世界(英語圏)の意識を探り、
これからの社会を予測しようとする試みらしい。
→ ウェブボット(WEBBOT)に注目殺到