削る

「いまのデザイン界は、削れないんです。」
東京でアートディレクターを長くやっておられた方が、ポツリともらした一言。
時間がない、予算がない、ギリギリの中で、最後は考える時間まで少なくして、
作り出した物は、似たり寄ったりの無難な仕上がり。
結果、デザインの持つオリジナリティは失われ、
まったく、メッセージがないものに。

CMで見かけるメークの単調さ。
どこぞの会社が作った物が、コピペ感覚で続々と出てくる。
お金と時間と労力をかけて作り上げる、オリジナル。
それを真似するだけで、二番手、三番手が登場。
気がつけば、そこら中がコピペ製品で溢れている。
大凡(おおよそ)デザインとは関係のないものだ。


時間をかけて鍛え上げられた肉体。
筋トレと弛(たゆ)まない努力で築き上げた身体。
そうした自分になりたいと、
日頃はぐうたらと食べたいものを食べ、
のんべんだらりと過ごしていながら、
いざとなれば、お金をかけて、ダイエット。
手間暇かけることなく、
なんでも、カネでの解決を指向する。


こうした風潮に違和感を覚えつつ、過ごしていた。
日頃なにげなく疑問に思っていたことだった。
無難に事をなすためには、人の真似をすればいい。
どこぞのメーカーがヒット商品を出せば、それをコピペする。
コピペ人間がそこら中に溢れている。
そういう人々は、話す内容も、行動様式も、ほぼ同じ。
まったく、面白くない。
化粧も、衣服も、生き方も、ほとんどコピペ。
安全だが、つまらない。
そういう人々が、いまの日本を澱(よど)ませている。


ダイエット、削(そ)ぎ落とすこと。
これは、個人へのメッセージだけではなく、
日本社会へ突きつけられたメッセージでもあるのだろう。
削ぎ落とす、削り取ること。
個人も、家庭も、会社も、国も、
すべてが、削ぎ落とすことから始めなければならない。
膨大な要求に対し、
考える時間だけが削ぎ落とされ、
やることは肥大する一方だ。


外面的な事を減らし、内面を見つめる。
外へ向かう自分の心を、
内省、自分自身の内側に向けて、
真に必要なもの、真に美しいものといった、
本物へ向かう姿勢が問われている。
肥大したデザインに対し、
削り取られたスリムで単純な姿を見いだし、
本来の生き方を模索する。
コピペ人生からの脱却を計ることこそが、
これからの生き方の指針となるのかも知れない。


コンピュータは、コピペの道具ではない。
コンピュータは、創造するために使う道具である。
少なくとも、わたしがコンピュータを使っているのは、
自分自身のオリジナリティを、
なんとか表出したいという思いからだ。
そのためには、削ることが必要なのだと、
お話ししながら気がついた。


>週刊 Doyoo( no.17)