空の空

ときどき、空(むな)しくなる。
目的がわからなくなり、
「何のために」という問いかけ自体に、空しさを感じる。



空(くう)の空、いっさいが空である。
汗水たらして働くことも、
一生懸命にお金を稼ぐことも、
ひたすら物事の道理を極めることも。
生きること自体が、空しいと。


ぽっかりと、こころの中に穴があく。
その穴から見える光景は、なにもない。
むなしさのみ、「空」のみだ。


わびしさに徹すると「侘び」が、
さびしさに徹すると「寂(さび)」がわかるように、
むなしさに徹すると「空(くう)」がわかるのだろうか。


若い時、聖書をよく読んでいた。
なかでも、「伝道の書」は大好きだ。

伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。
日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。
風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。
すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。
先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。
「見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。
前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。
→ 伝道の書



むなしさがこころを満たしたとき、
常にこうしたフレーズが浮かぶ。
むなしいことを考えるから、むなしくなる。
自分が求めているものは、むなしい事なんだ。
だから、むなしいんだ。
わかったような、わからないような。
それでいて、なんとなく心やすまる思いになる。


なにかを企て、
その何かがわからずに進むとき、
ぽっかりと、こころに穴があく。
その穴からのぞいた世界は「空」だ。
何もない。


それでいいのかと、別の自分が問う。
その問いかけに、ダイジョウブと答える自分がいる。
そのやりとりの中に、こころの静寂を感じる。
すべてが空なのだから、
何をしても良いし、
何をしなくても良い。
すべてがOKなんだ。
あるがままに、生きれば良いんだ。
最後は、ここにたどり着く。


人生とは、人が生きること。
人とは、自分自身のこと。
自分が生きることが人生。
そこに目的などない。
生きること自体が、人生であり、
そのプロセス自体が、生きること。
先走ることなく、
いま、ここで生きること。
むなしければ、むなしいままに。
そうやって、人は生きて来た。
だから、自分もそのように生きよう。
昔の人は、それで良いと言っている。