不易流行

若者との接点を、どうすればもてるのだろう。
年を重ね、経験を積んでくると、
自分の足跡を振り返りながら、
これから歩もうとする人への助言として、
何かしら伝えたいという思いになる。



かって、若者だった自分が、
やがて若者ではなくなり、
若者に対し、人生の生き方を話す立場に。


自分の生きてきた道。
そこで出会った人々や事柄。
自分なりに、真実を見いだし、経験則を学んだ。
その経験に基づいて、
自分の道を、若者に伝える。


時として、その内容に古さを感じる。
今は、そういうことでは通じないとか、
ここでは、そういうやり方はダメだとか。
時代や場所により、
生きてきた経験則が、通じなくなる。
若者にとっては、「説教」として受け取られ、
伝えたい事が、伝わらない。


何回となく話しても、理解されない。
その埋められないままの溝が、
職場に、学校に、家庭にと大きく拡がる。
そして、
「最近の若者は…」
のフレーズが連呼される。
時代を超えて、繰り返されるありふれた日常だ。


何を伝えるべきなのか。
時代を超え、場所を超えても、
変わらない、普遍的なものがあるのだろうか。
そういう話の中で、久しぶりに思い出した言葉が、
「不易流行」だった。


物事には、「不易」と「流行」がある。
そのどちらも必要であり、
どちらかを欠いても、やがて破綻する。
時代を超えて、場所を超えて「不易」なもの。
その時、そこでの「流行」。
若者は、いまの「流行」を追い、
老いたるものは、若かりしときの「流行」にこだわる。


両者の対話は、
時や場所が異なるという理由で、
往々にして噛み合ない。
時が変わり、場所が変われば、「流行」も変わる。
すべてが変わる中で、共通の理解は困難なものに。


いまの若者と、かつての若者。
その接点は何だろう。
いまとむかしを繋ぐもの。
むこうとこちらを繋ぐもの。
時代を超え、場所を超え、共通に繋がるもの。
そこに「不易」というものが、「在る」ようだ。


「不易」とは何だ。
そういう問いかけが聞こえてきそうだ。
変わらないもの。
変わってはいけないもの。
変えてはいけないもの。
そういう普遍的なものは、「在る」。
それが何か。


先人は「道」だと言った。
人の道。
ひとが、人として在る道。
ひとが、人として歩んだ道。
そうした道を、われわれは見いだし、
これから歩んでくる若者へ示す。
最後は、いつもここへたどり着く。


「道」を示す事。
自分の道を歩み、
その歩みを、謙虚に、飾らず、ありのままに示す事。
それが、昔若者が、今若者にできること。
これもまた、ひとつの示事(しごと)だと知った。