言の葉

言葉=「こと(事、言)」+「葉」と考えると見えてくるものがある。
言霊(ことだま)=「こと」+「たましい(魂)」につながる。
言葉を置いていく、という表現が浮かんだ。
ひとつ一つを具体的な言葉として配置し、それぞれを線で繋ぐ。
線が閉じられると、面になり、
縦に繋ぐと立体としての「もの(者、物、モノ)」になる。
「こと」から「もの」に移行するには、「こと」の「ば(葉、場)」を用意する。
そこに「たて」、「よこ」に配置された「もの」が生じ、
「たましい」が入り、動き出す。
深いな。



どちらかというと左脳のなせる技か。
右脳で捕まえたイメージに、「たましい=命」を吹き込む作業。
文章化、論理化する作業。
この作業で、始めてイメージがオブジェとして形を持つ。
イデアが具体化する瞬間だ。


自分の頭の中にあるアイデアを、
自分の外に産み出す作業。
左脳による文章化で、アイデアが形(もの)になる瞬間だ。
イメージの表現は、画像、音楽などでも可能だ。
それを生業にする人々が芸術家。
その伝えたいイメージは、万人に伝えるにはかなりの熟練が必要。
そしてアイデアも同じだ。


これまでの自分自身の歩みを自省しているが、
どうやらここらあたりが未解決という気がする。
自分の中のイメージを表現する手段として、
模索してきたわけだが、いまだに最適な手段〜スキルを見いだせていない。
何で自分自身のイメージを表現するか。
これが大きな課題として存在している。


かって、ある資格の受験勉強をしながら考えたことがある。
なぜか昔からテストには抵抗があった。
しかし、そのとき感じたことは、
自分自身の内面の表現手段を模索しながらも、
ずっと右脳志向で生きて来たということことだ。
これが言葉に対する詰めの甘さを生んでいる。
記憶のあいまいさ、なんとなく感じる、フィーリングでは...。
うまく表現できない自分の存在があった。


具体的に、明確に定義できないまま、いま生きている。
言葉で、はっきりと、他へ伝えきれないイメージ。
他者へのメッセージになりきれていないイメージだ。
イデアだけで、それが企画され、実行に移らない。
単なる思いつきで終わっている。
イデア倒れというか、頭でっかちというか、
中途半端な消化不良のふん詰まり状態だ。
何をやっても同じ所に返る。
思考のROM化現象だ。
リセットしても同じだ。
プログラム〜思考そのものが変わっていないのだから、結論は同じだ。


だから「言葉を置く」ことが重要になる。
自分自身の考えを、ひとつ一つ「こと」の「は」として置いていく努力。
これが必要だ。
そしてこうした考えは、カウンセリングにも通じている。