プロセスを楽しむ

ひとは楽しいことにお金を払う(仮説)。
ひとにより内容は異なるが、ひとがお金を出すのは、
その代価によって、嬉しくなったり、
楽しくなったりすることができるから。
善悪とかは個人の価値観の問題。
そのひとにとって、心地いいか否かで、
お金を出すか否がが決まる。
衣食住、買い物、見るもの、さまざまなものが、
自分が好き、楽しくなるという視点でお金は出している。



"Living with Joy" という本を読んでいる。
Joy:「喜び」とか、「ワクワクする気持ち」とか、
「楽しい気分」とかいうのだろう。
こうした気持ちで生きていく処方箋のような内容になっている。
20年近く前にスイスの友人に送ってもらった本だ。
好きなことをやること。それにより喜びがもたらされる。
自分が楽しいことは、ひとも楽しい。
自分が嫌なことは、ひとも嫌がる。
そう考えると、自分自身の生き方で気づかされる。
ほんとうに好きなことをやってきたのだろうか。
やらねばならないことを、我慢しながら、努力してきた。
そういう人生が、ずっと続いてきたようだ。


プロセスを楽しむ。結果にはとらわれず。
プロセスが喜びになる。
現在進行形での心の高揚感だ。わくわくドキドキ。
やること自体がおもしろい。
そういう体験をひとは求めている。
そこにお金を出すというのが、ひとの習性のようだ。


ちょっと飛ぶが、瞑想も似た状態だ。
瞑想で結果を追求するのではなく、ただ坐る。
そのプロセスで、ひとは癒される。
いやされるのは、あくまでも結果であって、目的ではない。
只管打坐。
止観の極意だ。

 「只管打坐」とは、「無所得・無所悟・不可得」の坐禅です。世間では「目的のない行為」は存在しないというのが通説ですが、「只管打坐」とは、さとりも求めない、ただ坐禅するだけで他に何も求めない、坐禅の外に目標を持たない、只坐禅一途ということになります。『坐禅のために坐禅する』 とか、『坐禅坐禅をする』と言われます。
 只管(しかん)とは、「ひたすら」という意味ではなく「無心無我」です。余念をまじえない「それのみ」「もうそれしかない」ということです。
http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/sikantaza.htm