ずるい

あの人は、努力もせずに、ずるい!
「ずるい」の底にあるのは、ねたみ、やっかみといった心情。
たとえば、医者は儲けすぎとか、公務員は恵まれているとか、
さらに官僚などの天下り非難といったことまで。


「自分より恵まれている」と、思う人に対し、
その努力など考慮することなく、結果に対し抱く感情。
それが、妬みややっかみの本質。
そして、出てくる感情が「ずるい」とか不公平といった気持ち。


こころに抱く感情を否定することはない。
浮かぶ感情をじっと見つめればいい。
自分は彼を、彼女を「ずるい」人と思っている。
そういう自分を見つめること。
そして、そういう自分を赦すこと。
自分を否定する必要はない。
そう思う自分も、自分だ。


ときどき、あの人はずるいという気持ちになる。
自分がやりたいことを、あまり努力もせずに成し遂げている。
それに比べ、こんなに努力している自分は報われない。
だから、彼はずるいヤツだ。
おおよそこうした流れだと思う。


彼が努力していないと、どうしてわかるのだろう。
さらに、自分の努力って、なんだろう。
同じ結果などあり得ないはずで、
彼は彼、我は我であるはず。
もともと比べることなどできないはずなのに、
量の大小を、あるいは報いの多少を考えている。


結果に対して、善し悪しや幸不幸を考えている自分がいる。
はたして、その結果が良いのか悪いのか。
その人が幸せなのか否か。
彼の、こころの中までわかるはずがないのに。


神という、人智を超えた存在の采配に対しても、
同じような感情を抱く。
なぜ、神は不公平なのだろうと。
彼はあんなに恵まれているのに、わたしはなぜこんなに苦労するのか。
なぜ、あの家庭は順調なのに、わが家庭はガタガタなのか。
障がいを持つ人、最貧国に生まれた人びと。
お金が集まる人と、逃げていく人の違い。
これは、単にその個人だけの業(カルマ)の結果なのだろうか。
彼が、彼女が前世で選んだ結果なのだろうか。
そう考えると、神さまは「ずるい」と思う。


その根底には、やはり妬みややっかみがある。
これとて、当事者の気持ちを理解できるはずがない。
テレビや新聞、さらにインターネットなどから得た情報で、
自分が判断しているだけだ。
その人びとの本当の思いなど、聴いた覚えはない。
自分が、そう思っているだけだ。
自分の思いが、そういう人びとを見ることで浮かび上がる。
それだけのことなのだろう。
日ごろ自分が持つ感情が、彼らを見ることで表層化する。
ただ、それだけのような気がする。


問われるのは、「で、わたしはどう関わるのか」という、
関係性の問題のようだ。
関わる自分は、どう在るべきなのか。
ただ、同情だけで良いのか、
憤るだけで良いのか。


存在の問題だと、気がつく。
自分の「在り方」の問題。
結論は、いつも同じだ。
自分自身が、そういう人や事象を見たとき、
自分がどう在るか、ということ。
「ある」がままの自分が、いま、この場所で、
彼らを、あるいは、それらを、
あるがままに見つめることができるのか。
自分の感情を感情として見つめつつ。


受容、共感そして自己一致。
カウンセリングで繰り返されるメッセージだが、
まさに、そういう自分で在ることが、問われることになる。
そのきっかけは、「ずるい」と思う気持ちだと知った。


「ずるい」と感じる自分を見つめ、
大切に、気長につき合っていくことにしよう。