独善、排他、ひとりよがり

独善は悪いことなのか。
排他的とはいけないことなのか。
独りよがりは避けるべきことなのか。


独善の反対語は?
独善とは、自分が正しい、自分は正しいとすること。
自分は間違っていない。
このこと自体は問題ないはず。
なにが独善にたいする悪いイメージを与えるのか。
我も良く、彼も良ければ問題ないのでは。

排他性が問題になっているのだろうか。
排他的、他を排する、無視するということ。
排他の反対語は。
受容ということか。
排するのではなく、受け入れる。
全てのひとが、異なり、共存する。
尊重し、尊敬しあう。
この状態が理想だろう。
そう考えると、排他性は確かに考慮すべきことか。


独りよがりはどうだろう。
独善と似ているような気もする。
一人偏った、独断専行的な生き方をイメージする。
これも善悪の問題ではないようだ。
たとえ千万人反対すれど我はゆく、とする生き方でもある。


自分の性格を考えたとき、
こうした言葉が気になっていた。
若いときは、
極めて独善、独りよがりであった。
そして排他的だった気がする。
攻撃的というより、防衛的にそうしてきた。
自分自身の身を守るための手段だったようだ。
この性格に、傲慢という文字も加わった。
20代のほろ苦い経験だ。
若かった。そう思う。


ニューヨークの街をさ迷っていたころ、
五番街ユダヤ教シナゴーグのドーム下に、
忘れることのできない言葉と出会った。
Walk humbly with thy God.
旧約聖書の言葉だ。
傲慢な自分を戒める座右の銘として、
常に思い出す。
セントラルパークを当てもなくさ迷い、
どのように生きていけばいいのか、考えた。
ひとり、だった。


独善でもいい、独りよがりでもいい、
しかし排他では生きていけない。
それが、いま自分が噛みしめていることだ。
カウンセリングの学びを通し、
受容がいかに大切か知った。
受容こそが、ひととひととを結びつけるものだと。
自分に欠けていたものは、
ひとの考え、感情をそのまま受け入れるということだった。
そのひとを、そのまま受容する。
そういうことができれば、
自分は自分であって良いのだ。
独善であっても、独りよがりであっても、
構わないということだ。
受容、そして謙虚。
このふたつが、わたしのいまを支えてくれている。
感謝だ。