不安を伝える

地球が爆発するかもしれない
地震が発生するかもしれない
テロが起こるかもしれない
家が火災で燃えるかもしれない
交通事故に遭うかもしれない


失業するかもしれない
お金が無くなるかもしれない
病気になるかもしれない
死ぬかもしれない
惚(ぼ)けるかもしれない

「かも」+「しれない」の用法だ。
しれない=知ることができない。
そうなるかどうかわからない状態で、
望むことと反する状態に対して、発する言葉。
不確定な状況におかれたとき、
つい口にする言葉。
ひとから、自分から、浮かんでは消える想いだ。
思うたびに、不安になり、
その不安をなくすために、対策を考える。


堅固な住まい、核シェルターの設置。
万が一のための各種険保。
自分がどういう状態であるかの検査。
正常値を示しているか、異常はないか。
数値の大小に一喜一憂する。
すべては将来起こる、「かもしれない」出来事に。


将来を考えると、不安になる。
「かもしれない」には、善し悪しはないのだが、
どうしても悪い方へと、考えが流れていく。
「健康であるかもしれない」のに、
「病気になるかもしれない」というリスクを考え、
「病気にならないよう」に、あるいは、
「病気になったときのため」の準備をする。
「備えあれば憂いなし」という教訓を踏まえて。


「不安を伝えているのではないか」
ということに対して、不安を持った。
子供たちに、相談者に、友人に対し、
不安を与える話し方をしているのではないか。
現実を、事実を伝えると言いながら、
自分が知っているデータを、
「かもしれない」というフレーズで使っている?
そんな想いがわいてきた。


自分自身に対しても、
自我が、自分に対して言い放つ想いが、
そこにはあるような気がしている。
ときどき起こる不安。
将来への漠然とした不安だ。
この先どうなるのだろう。
景気が悪ければ、仕事は、収入は?
自分も、ほかの人も、それぞれどうするのかな?
漠然と、「かもしれない」が増えてくる。
それだけ将来へ意識がフォーカスされているのだ。
結果として、相談者への「かもしれない」に、
自分のいまの状態からのバイアスがかけられる。
バイアス〜重みが増すことにより、
伝える内容が、だんだん否定的、悲観的な方へと引っ張られる。
そして残るのは、将来への不安。
こうなったらどうしようという想い。


「いま」を生きていない。
「これまで」のデータを元に、必死で「これから」を考える。
「いま」という時を忘れて。
いま、ここで、どうあるかという意識を持つことなく、
過去のデータから、未来を予測しようと、
大切な資源(いま)を使い果たしている。
「いま、ここで」生きることがすべてのはずなのに。
それだけで良いと知らされているのに。