人生時計

一人ひとりに人生時計がある。
ゆっくり歩く人、猛スピードで走る人。
それぞれが、自分のペースを見出だそうと生きている。
いま、そのとき、そこにある、ということが全てだ。
誰かのペースに合わせて生きるときもある。
人から励まされ、継続できる場合も。
それぞれが、自分のペースを見つけるべく生きている。

それぞれの時間を共有する。
その人の生きる時間、生きるペースを理解する。
そこに、共感がでてくるのだろう。
端で見ながら、その人のペースがわかり、
ともに歩むこと。
それしかできないと思うのだが、
全力疾走する人と、伴走することは難しい。
自分が追走できるペースになるまで、待つしかない。


仕方が無いことだと思う。
所詮、他人の人生時計では生きられない。
グズ、セッカチと形容されるが、
それぞれの時間感覚で生きている。
ある人にとっては、グズに映るが、
別の人には思慮深いと映る。
セッカチな人だという人もいるが、
実行力、行動力がある人と評する人も。
それぞれが正しく、それぞれがその通りだろう。


自分自身の歩みを、他人から評価されたとしても、
満足できるわけではない。
自分自身、納得できる生き方をしたい訳であって、
こればかりは、人のために生きるわけではない。


それでも、自分自身を分かってもらえる努力は必要だ。
人はひとりで生きている訳ではない。
互いの共同作業で、協働しながら生きている。
とすれば、それぞれが互いの時間のペースを知り、
理解していく以外に、共存できないのだろう。


それしかできなければ、そうするしかない。
その人は、そうであることしかできない。
だとすれば、そのままの彼を、彼女を受け入れるしかない。
どちらも、そういうものだ。
彼や彼女の時計があって、
そして、わたし時計がある。
それだけだ。
そういうことのようだ。