自己責任

人生は、自分が歩んで来た道である。
自分が選択し、たどってきた道。
あくまでも、自分の責任で選択したはずだ。
過去を悔やんで嘆いたとしても、何も始まらない。
そういう思いで生きている。
それが、こうした記事を見るたびに、考え込んでしまう。

「失敗すれば誰かが助けてくれる」良い社会である。「弱者にとって優しい社会」これまた良い社会である。しかし、度が過ぎると、過保護になりすぎて、日本中、自己責任など取れない企業や個人で溢れかえることになる。
→ 弱者に優しい社会って、どうなんだろう?

求職者の話を聴いていると、
失業し、仕事がなく、生活が苦しくなった責任を、
自己責任としてとらえきれていない場面に出くわす。


弱者救済というタイトルは心地よい。
困っている人には、お金を、住まいを、衣服を支給。
救済する当事者としては、自分の行為は、
人助けであり、社会貢献になっていると信じているのだろう。
そんな中「最小不幸社会」の実現にむけて、
「一人ひとりを包摂する社会」特命チームを設置するそうだ。

政府は、最小不幸社会の実現に向けて、地域 や民間の多様な知見を借りつつ、「孤立化」の実態を明らかにす るとともに、セーフティネットの強化を含めた社会的包摂を推進 するための戦略(「社会的包摂戦略」)策定を目的とした特命チー ムを設置する。
→ 「一人ひとりを包摂する社会」



介護・福祉問題、
新・既卒未就職者支援、
基金訓練による生活給付金支援、
農家への助成金支援、
さらには中小企業への支援...
弱者救済という大義名分のもと、莫大な支出が求められている。
最小不幸社会」とは「弱者にとって優しい社会」なのだろうか。


自助努力で生きてきた者として、大いに疑問を持つ。
自力で生きていこうという意志がない人々へ、
自己責任という自覚を持たないまま、
支援を行うことは、最終的には依存につながるだろう。
支援がなければ生きていけない人々の増加である。
最小不幸社会」は、「最大依存社会」の到来を意味するのかもしれない。


すべての支援を止めるべきということではない。
当然、必要な支援は継続すべきだ。
では、どうすれば良いのか。
そこがなかなか見えてこない。
このまま進んでいてはヤバイとは思うが、
個々人への対応は、個別にできたとしても、
全体への働きかけは、残念ながらわからない。


ただ、こうした状態が続くと、産業界は確実に海外へシフトし、
国内は弱者で溢れてしまうのではないかと危惧している。

シャープの町田勝彦会長は21日、副会頭を務める大阪商工会議所の記者会見で、国内の雇用について「電機業界は日本のウエートをどこも5分の1ぐらいにしか考えていない。海外進出を進める限りは雇用も5分の1になる」と語った。
→ 海外進出進めば「日本で雇用、5分の1」

「最大依存社会」が、政府が向かう「最小不幸社会」であるとしたら、
わたしは、別の道を歩みたい。