ソーシャルメディア

facebookに関するコメントがやたら目立つ。
その度に、自分のアカウントにアクセスして、
これからはfacebookだから、使わねばと思う。
こうした流れを、何度繰り返しただろうか。

エジプトでは、ついに政権交代が。
牽引していたのは、グーグル社員などネットに関わる人々との話。
その一翼を担ったのが、facebookTwitter
ますます、facebookが重要性を増す。
さらに、facebookとGoogleの間でTwitterは挟み撃ちとか。


ときどき、訳がわからなくなる。
どうなっているの?
思い出すのはmixiだ。
かなり騒がれていて、参加せねばまずい...
次男に頼んで入会したのだが、どうも馴染めない。
幾度となく、ログインして、我慢して見るのだが...
いずれ、この感覚は文章にしてみたいと考えている間に、
今度は、facebookの来襲となった。


映画ができたそうだし、見なければいけないのだろうが、
お金払ってまで、見る気はしない。
なんだか、あまりにも打算的というか、営利追求的というか、
参加する目的が、なんだかスッキリしない。
あくまでも、これは自分自身の感覚であって、
参加する人々が、そういう意識かどうかは分からない。


もう少し、ボチボチと、繋がりを作れたら。
自分のペースで生きられたら。
自分は自分だし、相手がどう思おうとも。
そうした生き方が、ネットでは可能だと思っている。
無理してフォロワーを増やして、どうするんだろう。
ツイートなどに感情的に対処したって、仕方ないだろうに。


こうした考えを持っていると、facebookなど、なかなか本音を書きづらい。
ましてや、本名で書けなどと言われると、引いてしまう。
それほど明確に意識して文章など書いていないし、
まして、リンクやお友達とのつながりなど、気楽に登録できない。
これって、疲れてしまう。
ネット上の、不特定多数の人々が見ることができる場所に、
気楽にオープンできそうもない。
そう考えると、やっぱりfacebookは使えない、との結論に。


Twitterに関しては、訂正が入れられるし、
過去のつぶやきなども、その気になれば見ることができるが、
ちょっと面倒になる。
その面倒くささが、いいのだと思う。
わざわざ、過去のつぶやきを見に行く人って、それほどいないだろうし。
自分自身も、忘れている場合もある。
人は変わるもの。
その変化の過程を知るのには、なかなか良いと思うが、
いきなり、そのつぶやいている当事者に、顔も見せよ!
と要求しているのが、facebookという気がする。
まさしく「face=顔」であり、「顔見せ本」ということだろう。
これは、今の自分はちょっと無理。
それが、今日までの結論だ。


あるがままに、
嫌なことは、しないこと。
そのまま、今のままで、行くことにしよう。



追記:
→ Facebookの実名性、日本人に抵抗のある世界観であることは確かでしょう(11.02.16)