わ・か・ら・な・い

いまだに揺れがおさまらない。
答えが出るはずのない問題を、ずっと考えている。
どうやら、原発は長期戦。
その被害の見通し。
さらに、今後のエネルギー問題。
廃止すべきが、継続か。
そもそも、原発そのものが許されるのか。



原子力的日光」というそうだ。

 15分後に部屋に戻ったホイットニー准将は芝居がかった口調で述べたという。「原子力的な日光の中で陽なたぼっこをしていましたよ(原語ではWe've just been basking in the warmth of the atomic sunshine.)」


 原子力的日光とはこの時点でアメリカだけが封印を解いた核エネルギーの光だ。ホイットニーは唯一の原爆所有国の圧倒的な存在感をもって日本側にマッカーサー憲法草案の受諾を求めた。
→ 反原発と推進派、二項対立が生んだ巨大リスク

封印されていた核エネルギーが、その封を解かれ光を放った。
光のもととなった原爆の、洗礼を受けた地に生まれた。
その光は、やがて日(ひ)の本(もと)の国にも点灯。
日照(アマテラス)の子孫たちは、
その存在を忘れ、今日まで恩恵を享受。


その光をめぐって、善悪論争が勃発。
それぞれが、根拠を列挙し、どちらかの選択を迫る。
ネットで、その根拠をググった。
そして、「わからない」との結論にいたった。
はたして、結論と言えるのかどうかも疑問だが。


「わ・か・ら・な・い...」
このことだけは確かだ。
要するに、誰ひとりとして、これが正しいという断言ができない。
ということは、100%の正解が存在しないということ。
だとすると、残された道は、両論併記の中から、
ひとりひとりが考えて、
ベターな選択肢を選ぶ以外に方法はない。


まさしく、道(タオ)の世界。
未知の世界へすすむための道。
試行錯誤する中から、やがて最適解が生まれ、
その解をひとびとが理解し、受け入れたとき、
明確な道が出現するのだろう。
なんだか、訳がわからない混沌(ケオス)状態から、
ようやく、光がみえてきたような。


ここ数週間の原発事故報道。
原発に対し、賛成、反対といった双方にブレながら、
だいぶ落ち着いてきた。
大きな心の揺れが、小さな余震にかわり、
やがて、平静な状態に。





「わ・か・ら・な・い...」
割り切って、わかる必要がない、
ということがわかった。


わからなくても、OK。
わからないことは、わからない。
そのまま、わからない自分を受け入れればいい。
あるがままに。



学んだリンク:
→ 原発報道は「大本営発表」に頼りすぎている
→ 反原発と推進派、二項対立が生んだ巨大リスク
→ 日本がタブー視し、向きあってこなかった現実
→ 福島原発事故の現状と今後(大前研一)


<実は、知らなかっただけ。下記のリンク記事はかなり前のもの>
→ 原発がどんなものか知ってほしい?
→ 原発がどんなものか知ってほしい(平井憲夫氏)
→ このリンク集を作った理由