自分は自分

インターネットが使えない職場で3年近くが過ぎる。
仕事はすべてネットを介してだが、
個人でネットを彷徨うことは禁止。
すべてが監視されていると、知らされた。



もっとも、忙しい業務の中で、
ネットを見ている時間はほとんど無い。
たまに、iPhoneTwitterやメールをチェックする程度。


先日、これまで記録してきた日記もどきを見ていた。
その昔は、ノートに書き綴っていた。
それが、ネットと出会い、
ワープロソフトを使った書き込みに移行。
その後、ブログの出現でネットへと。


当時は、ネットを使える人は限られており、
セキュリティーなど気にせず、
堂々と、実名まじりの書き込みをしていた。
やがて、多くの人がネットを利用するようになり、
とりあえず、非公開ブログでの書き込みにした。


ブログは、あくまでも自分の日々の記録であり。
自分だけのものであった。
感じたこと、思ったこと、
さらには、嫌なこと、腹立たしいことなど、
自分に正直に、自分のこころを映していた。


マスコミなどが騒ぎ、ブログを書くことがステータスとなり、
やがて、商用利用へとシフト。
読まれることを意識した書き込み。
個人の記録というよりも、
なんらかのメッセージ性を持たせた内容へと変化。


公開ブログは抵抗があった。
何度となく、開設しては放置。
数年ほど、続けた記憶がある。
自分にはできないのではないか。
一家言の内容など、書けるはずがない。
さらには、自分自身の立場が危うくなるのでは。
そういう思いを吹っ切って始めたのが、このブログだ。


数年続けてきて思うことは、
自分に関する記録ができなくなった、ということ。
何かを書き込むとき、常にそれを読むであろう
不特定多数の目を意識している自分がいる。
違う。
明らかに変わってしまった。
何事も、他人の目を意識しながら、行為している。


TwitterFaceBookGoogle+...
ソーシャルネットを追いかけながら、
あまりにも外向き過ぎる自分に気がついた。
自分は自分。
紙にその思いを書き綴っていたころはそう思っていた。
誰かが自分の記録を見るなんて考えられない、
まして、それが活字になって、誰かが読むなんて。


自分を映す鏡としての日記。
いつしか、相手を鏡として見ている。
これはやばいぞ!
そういう思いにいたった。


もっと、自分にならなければ。
自分の想い、
自分の意見、
自分の感情。
こうしたものを、ストレートに出さなければ。
I am that I am.
根源的な存在としての自分。
天上天下唯我独尊。
こうした境地に戻らねば。


違っていていい、
一人だけの意見でいい、
オンリーワンだからこそいい。
そう。
同じであれば、コピペすれば済むわけで、
そんなページがネットで溢れても、
それはゴミだ。
コピー商品は、所詮コピー。
いずれはなくなる運命だ。


ネットの立ち位置は、少し明確になった。
それでも、本音で書く日記を置く場所は未解決。
もしかしたら、iCloudがそうしたことを解決するのかもしれない。

まあ、いつものように無い物ねだりの気もするが。
いずれにしても、もっと自分の内なるものを大切に、
自分自身にこだわった記録をせねばと感じている。



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→ ソーシャルネットが僕らから奪った大切なもの

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→ 「隠す派」対「透明化派」 ネット情報公開どうする?

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