内省型

「ワールドカフェ」ということば。
以前からときどき出会ってはいたが、
たいして気にはならなかった。
華やかな、コーヒーショップのようで、
自分には関係ないものと思いながら。

あるブログで、対話促進のやり方の一つだと知り、
いつものように、ググってみた。
やり方などは、以下の記事に詳しいが、
→ 【詳しいやり方が分かる】ワールドカフェ実践マニュアル
「内省型コミュニケーション」だとの記述が、気になった。

セッション開始前の導入でセンゲ氏が特に強調したのは、「内省型コミュニケーション」――自分の思考の前提となるフレームワーク(メンタル・モデル)を一時的に脇に置いて、話す人の意見をその前提とともに受け入れて聴く技術です。日本の「傾聴」にも近いですが、話し手のメンタル・モデルを意識して聴くことによって、自らのメンタル・モデルを広げ、そして、グループとしてより広い視野の、新しいメンタル・モデルを構築することに焦点があてられます。


→ 会話から未来をつむぐ「ワールド・カフェ」



「内省型」、どういう意味で使っているのだろう。
それも「内省型」+「コミュニケーション」で。
組み合わせ自体に、違和感があり、
これは何かあるなと、考えてみた。


ワールドカフェそのものが、
それぞれの個人に内在する異なる意見を、
引き出すための仕掛けのひとつなのだと、気がついた。
これまで、いくつかの研修会などに参加しながら、
常に不完全燃焼的な思いを持っていた。


研修会では、なんとなくわかったとか、
良かったとか、気持ちの高揚感はあるのだが、
一人になったときの、
空虚さや、虚脱感を含め、
なにかもう一つ、行動に移せないもどかしさが、
多かったように記憶する。


理論はわかった。
やり方も、その結果が望ましいのもわかった。
しかし、できない。
いや、やろうとしない自分がいるのだ。
なぜだろう。
あれだけすばらしい話を聞き、
訓練を受け、決意したはずなのに。


やがて、こうした集まりに参加することや、
関係する書物や記事を読むことなどが、
億劫になった。
結局、みな同じような結論になる。
自分は、まったくこれまでの自分のままだ。
そいう自分に数年前に気がついた。
以来、ファシリテーションコーチング、NLPなどなど、
気にはなるが、馴染めないまま、留(とど)まっていた。


どうやら、「ワールドカフェ」が目的とするところは、
意見を集約することでも、
参加者をある方向へ導くことでもない。
ひとびとが、カフェのように気楽に集い、
まったくの自由で、縛りのない雰囲気の中で、
交流を通して、自分に必要な何かを得る。
プロセスの中から、なんらかの課題解決を目指す手法らしい。


実際に参加したわけではないので、
あくまでも、憶測にすぎないのだが、
なにか、これまでもやもやしていたものが、
スッと、晴れる気がした。
これならいけるかも。
あらたな集いを考えるきっかけになりそうだ。


以上が、「内省型コミュニケーション」からの気づきだが、
もう一つ、気になる言葉と出会った。
それが、「内省型リーダーシープ」だ。
こちらもたいへん興味深い内容だ。
組織のリーダーとして、「内省」を中心としたあり方。
それは、最後は自己の内を見つめるという、
ある意味、宗教的な内容と重なっていた。


関連HPは、つぎの通り。
→ 5年後も活躍するためのスキル「内省型リーダーシップ」
→ 人を動かす内省型リーダーシップ
→ ヴィパッサナー瞑想と内省型リーダーシップ
→ 生きる技 − ヴィパッサナー瞑想法
仏教の座禅、ヨガの瞑想、
あるいはカトリックの黙想など、
沈思黙考による自己探求的な要素がカギとなるようだ。