コミュニティ

人は集まる。
何らかの目的や意図を持ちながら。
始めは、同じ方向を向いていても、
やがて、集まりはばらけてくる。
出会いと別れ、
誰しもが経験するできごとだ。



ひとは、あらたな出会いを求めて集う。
それぞれが、さまざまな想いを秘めながら。
ひとは、少しずつ自分の想いを語りだす。
その語りの中から、
自分が求めている何かを探りだそうとして。


目的を、はっきりと自覚しているひともいれば、
漠然と、なんとなく意識しているひとも。
語り合いの中から、
ひとは、自分の想いに気づき、
集ったひとの想いを重ねる。


出会ったときから、別れを考えるひとは希(まれ)だろう。
このひとは、何を考え、何を想っているのだろう。
文字通り、そのひとの想いを、思う。
共通のなにかを求め、
つながりを探(さぐ)りながら。


ひとは一人では生きづらい。
かといって、誰とでも一緒にいたい訳ではない。
どちらかというと、時間や空間を共有したい人は少ない。
できれば、この場、この時、この人から逃れたい。
そういう思いが、わたしには強い。
人見知りはかなり激しいと、自覚している。


それでも、年をかさねるにつれ、
慣れというか、我慢というか、
その場の凌(しの)ぎ方については、
だいぶ身についてきた。
愛想良く笑顔を見せながら、
その場にふさわしい言葉で応対する。
ある種、営業マインドといったところだろう。
だが、疲れる。
仕事だと割り切るのだが、
自分のこころは満たされない。


いま、あらたな共同体〜コミュニティについて考えている。
これまで、さまざまな組織に属しながら生きてきた。
家族、親類、学校、団体、会社などなど。


あるがままの自分を、
そのまま受け入れてもらえる空間。
いつまでも、そこに居たくなる空間。
ひとりではなく、人びとと集える、時と場所。
そういうものを求めている。


持続可能(Sustainable)な集い〜コミュニティは、
どうすれば実現可能なのだろう。
あらためて、コミュニティーの定義を見てみた。

コミュニティー(英:community):
 英語で、「共同体」を意味する語に由来。同じ地域に居住して利害を共にし、政治・経済・風俗などにおいて深く結びついている人々の集まり(社会)のこと(地域社会)。
 日本語の「共同体」はこれの訳語。主に市町村などの地域社会を意味するが、転じて国際的な連帯やインターネット上の集まりなども「共同体」あるいは「コミュニティ」と呼ばれる。
→ Wikipedia



ひとが集い、その集いが継続するためには、
共通の目的、共通の考えといった、
なんらかの共通するものが必要だ。
さらには、それを維持するためのルールなども。


いまの自分に満足している訳ではない。
だからといって、無理をしてまでも、合わせるつもりはない。
だけれども、変わりたい、
できれば向上したい。


いま、ここにいる自分を、自分として認め、
そこから、新たな自分を目指し、
その自分を求めて、努力する。
在るべき自分に、なるための努力。
そうした人びとの集いが、あって良いのではと思う。


わたしも、あなたも、あなた方も、
皆、ともに学ぶ人。
あなたから、わたしは学びたい。
わたしも、あなたに伝えたい。
こうした相互扶助的な、まなびサークルの実現。


リーダーとか先生といった、
偉い人や、仕切る人はいない。
同じ目線で、
ともに、学び、
ともに、教えあう。
教えることで、学べる仕組み。


学校ではない、○○教室でもない、
強いて言えば、「学びスペース」といったところだろう。
必要条件は、
学びたい、向上したい、という意識。
いまの自分を、高めたいという気持ちを持つこと。


ここまで考えていたら、
これは、「勇気ある高尚な生涯」の探求ではないか、
ということに気がついた。
青二才で、右も左もわからない時に、
こころの支えとなったのが、内村鑑三の著作集。
その著書、「後世への最大の遺物」に出てくることばの一節だ。


「勇気ある高尚な生涯」を志向する集まり、
これこそが、自分が求めてきたものなのでは。
そして、生涯=キャリアと置き換えると、
ますます、自分自身の目指すものが明確になってきた。
キャリアという言葉には多くの定義があるが、
狭義では、仕事や職歴として、
広義では、人生そのもの、あるいは生涯ととらえて良いだろう。


集まりの目的を、
「高尚な生涯(キャリア)の探求」とし、
その生涯を見いだし、勇気を持って歩むことを支援する。
キャリア(生涯)開発支援のための、
コミュニティ創成というのが、結論だ。
とすれば、どういう組織になるのか、
そのイメージは、かなり鮮明に見えてきた。



→ 後世への最大遺物青空文庫)より:

 それならば最大遺物とはなんであるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。他の遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないと思います。
 しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。

→ 内村鑑三「後世への最大遺物・デンマルク国の話」
→ 人間が残すべき遺産
→ 鍵山秀三郎さんの遺す遺産