自分メディア

インターネットの出現で、
個人の情報発信が、容易にできるようになった。
受け手から、発し手への変身だ。



ネットの発信者を特定することは難しい。
性別、年齢、学歴、職業などなど。
おおよその見当はつくが、詳細はわからない。
それでも、彼が、彼女が伝えたい何かが、伝わってくる。


自分の中にある、意識の波動が、
彼らの伝えたいメッセージと共振したとき、
共感が生まれ、増幅され、
自分が動くきっかけとなる。


発信者としての自覚が、求められている。
一人一人が、自分メディアとして、
「わたしは、何者なのか」という、
自分のプレゼンス(存在)を示すことを。


自分自身を、どのように定義するのか。
「仕事をしている人間」か、
「趣味で生きる人間」か、
「人生を憂い、ひたすら裏社会に引きこもる人間」か、
あるいは、「暗闇に、光をもたらす人間」か...。
さまざまな「自分」が、いる。


実社会では、意識する・しないに関わらず、
その時、その場で、ひとは自分のプレゼンスを選んでいる。
そこには、「在りたい自分」がいるわけで、
状況により、
服を替え、容貌を整え、語る言葉を選びながら、
自分のプレゼンス(在るべき姿)を決めている。
実社会でのこうした立ち居振る舞いが、
ネット社会でも要求されている。
ネットはバーチャル(仮想)だから、
適当につき合おう、と考える時代は終わり、
実社会と同様に、現実の一部としてとらえ、
どういう立ち居振る舞いをするかを、
一人一人が考える時が来た、と感じている。


きちんと正装した自分なのか、
カジュアルでフランクな自分なのか、
率直に、きっぱりと言い切る自分なのか、
なんでも受け入れる、優柔不断な自分なのか、などなど。
「これがわたしです」という、
自分自身の立ち位置を決めることが求められている。


とすれば、なんでもありのままの姿を、
ネット上に晒(さら)すという行為は、
それを意図的に行う場合を除き、
本来の「在りたい自分」を伝える手段としては、
不適切なのではないだろうか。


始めたきっかけは、
「プライベート(私的)」だったかもしれないが、
ここまで多くの人びとが利用するようになると、
「パブリック(公的)」としての意識を、
要求されていると思えるのだ。


ネット社会に、パブリックな存在として、
自分自身の存在を示す(プレゼンする)ことが、
不可避となる日が、そこまで来ている。


とすれば、今から意識して備えることが必要だろう。
自分メディアを、どのように構築し、
どのようなメッセージを発信していくのか。
一人一人が、
その意味を考えて進むときになったようだ。



追記:
カテゴリーに「ネット」を追加。
できるだけ、ザックリ分けたかったが、
最近、こうした内容が増え、
「パソコン」だけに分ける限界を感じていたのが理由。


雑記(メディアとは):
メディアとは、メッセージを伝える媒体のこと。
紙であったり、音であったり、
色や形、殴り書きなども、それぞれ何かを伝えている。


マスメディアという言葉。
大衆に向け、さまざまなメッセージを伝える。
その昔は、語り伝え。
それが、瓦版のような印刷物になり、
ラジオ、テレビと、
それぞれの役割を担いつつ、進化。


この10年くらいは、
これらを総合したマルチメディアが席巻。
それに通信が加わり、
インターネットが、最大のメディアとして賑わっている。