無為自然

作為をなくし、自然のままに。
何度となく考える。
何もしなくて良い、
あるがままに、身を任せれば。

最後には、落ち着くところへ落ち着く。
止まない雨はないし、
強い風であっても、吹き続けることはない。
雪もやがて解けるわけだし、
太陽だって、夕方には隠れてしまう。


そうした自然の営みの中に生きているのに、
なんとか、流れを変えようともがく。
なるようにしかならない。
しかし、そうした自然の流れに果敢に挑む。
ガッツだ、根性だ、やる気だと。


人の努力とはなんなのか。
人は、画策することで、事をなしていけるのだろうか。
最後は、孫悟空が釈迦の手のひらの中で踊るように、
人の行為自体が、ちっぽけで、意味がなかったと、
悟る日が来るのだろうか。


無為、文字通りだと、為すことを無にする。
何もしない、という事になる。
常に問うのは、
本当に、何もしなくて良いのだろうか。
何かをしなければ、いけないんじゃないだろうか、
という問いかけだ。
何もしていない自分の姿に、
焦り、苛立ち、情けなさといった、
複雑な感情を抱きつつ。


プロセスと結果。
無為自然のプロセスのなかに、道が出現し、
その道を歩んだ結果として、
すべてがなるようになっていく。
心配することなく、考えすぎることなく、
自然の成り行きに、身を任せて、流れていく。
最後は、そうした生き方こそが、自然の生き方となり、
人生そのものになる。


ヒト以外の生き物は、
そうした営みを、淡々と過ごしているようだ。
それぞれに、問いかけることはできないのだが、
頭の中で、あれこれと試行錯誤することが、
ヒトの、宿命のようだ。


あるがままに、目の前の事象を観察する。
一喜一憂するでなく、
ただ、流れるままに、生きる。
雨が降れば、雨宿り。
日差しが強ければ、木陰に涼む。
その日一日を、憂うるでもなく、
多大な期待を持つでもなく、
あるがままに、受容し、楽しむ。


無為自然の道は、
徹し切れれば、もっとも楽で、楽しい道なのかもしれない。
何も要らない、いま、ここを楽しむ。
いま、この時、この場所が、極楽で有り、天国。
いま。目の前に展開する事象にハラハラドキドキしながらも、
きっと、なるようになる。
落ち着くところに、落ち着く。
そうした、人智を越えた偉大な力、自然の力に身をゆだね、
安心立命の境地を生きる。
こうした覚醒が、悟りと呼ばれる境地なのだろう。


何も変えない、いま、ここから、
自分自身のこころを、無為自然の流れに委ねたとき、
行きつく先は、ゆったりと、ゆっくりと、
こころ安らぐ桃源の郷になるのだろう。
自然の流れ、自然の営み。
目指すは、そうした自分自身の在り方だ。
本物の人生、本物の生き方、
それは、無為自然に徹した生き方だと、知らされた。


無、空(くう)、なにもない。
空気も、光も、水も、
無色で透明。
それぞれが、価値ある存在として、
存在を誇示せず、ただ、淡々と在る。
こうした存在こそが、ひとり一人が目標とする生き方だと、
だいぶ理解できるようになってきた。