感謝祭
そろそろ、年賀状の季節。
先だって届く喪中のはがき。
いつごろから、こうした習慣が始まったのだろう。
いきなり、○○が永眠しましたので...。
それを知った瞬間から、こころが動き出す。
何人といえども、抗しがたい現実。
日頃、三猿(ザル)に徹していた現実に、
改めて向かい合うことに。
昨日、従兄弟夫婦が母のお参りにと、
20数年ぶりに、来訪。
今年亡くなった、叔父のお参りのついでにということだった。
90歳に近い父は、死ぬのが怖いと、繰り返す。
「死」か。
「死ぬのが怖い」とは、どういう心境なのか。
二人の会話を聞きながら、考えていた。
見猿、言わ猿、聞か猿。
あまり考えたくないし、語りたくない。
目の前の人が、やがて向かえる死。
他人事ではない、自分自身も遅かれ早かれ遭遇する。
誰が、どんな説明をしたとしても、
究極は、謎だ。
事実としての検証が、できないのだから。
死からの蘇(よみがえ)りとか称しても、
それは「死」だったのか、確証などないわけで。
人は、いつかは死ぬ。
人は、死ぬまで、必ず生きている。
「死」という、人生でたった一度の晴れ舞台。
関係者一同が、その時、そこに、会して、
ひたすら去って行った人のことを想い、
気持ちを一つにする。
死んだ後のことを考えて、
自分の葬儀とか、お墓とか、準備する人もいるらしい。
ある人は、生前葬まで済ませたとか。
いずれにしても、避けては通れない現実を、
改めて考えている。
当事者として、「死」を考える場合と、
他人事としての「死」を考える場合。
後者については、その機会は数多くあるのだが、
前者については、「自分だけは死なない」みたいに、
考えている自分がいる。
「死」そのものは、意外と他人事としての認識が強いようだ。
母の死をきっかけに、ときどき巡ってくる問いかけ。
人は、なぜ生まれ、死んでいくのか。
死んだら、どうなるのか。
死ぬとき、人は何を考えているのだろうか。
すべての行いや考えが、止まってしまう瞬間だ。
一つの細胞が、分裂しながら、成長し、
それぞれの細胞が機能を分担しながら、身体ができる。
(スマナサーラ老師の話)
その中に、こころと称されるものが宿り、
こころと体を使って、いろいろと考え始める。
こころが体を使い、いろいろと物を生み出し、
その物に囲まれながら、生きている。
やがて、すべては消えて亡くなるのだが、
そうした事実には、目をくれず、
ひたすら物を蓄えて、生きている。
こころと体をベースに、魂が宿ると教える人もいる。
たしかに、こころと体と魂が、あるような気がする。
でも、わからない。
そう考えた方が、生きやすいとは思うのだが。
生きること自体、正解はない。
誰もが、どんな生き方をしても、良いわけで、
100年近い時間を与えられ、
好きなように生きれば良い。
そうなんだけど、そう生きられない。
それが人生だと、達観できたとき、
生きる意味がわかるのだろうか。
意味などないと、言い切る人もいるのだが。
いずれにしても、
「死」という言葉と向き合うことで、
日頃、他人事としていた「生きる」ということが、
自分事としての「生きる」を考える契機となることは、間違いない。
昨日は、勤労感謝の日。
その起源は、新嘗祭だ。
その意味さえ、学んでいなかった自分を恥じるのだが、
要は、収穫に感謝する日だ。
そして、海の向こうでは
Thanksgiving Day と称される、感謝祭を向かえる。
与えられた物への感謝。
それは穀物などの食べ物に始まって、
最終的には、自分自身の生命への感謝へとつながる。
与えられた生命を、
感謝し、精一杯使い切ることで、
生命の終わりを全うする。
そうした生き方ができたならば、
本望(ほんもう)と言えるのだろう。
大いなる力に、改めて畏敬の念を表したい気持ちになった。