天を相手に

「人を相手にせず、天を相手にせよ。」
大学生のころ、
行き先も定まらず、
悶々としていたときに出会った言葉だ。

人を気にするあまり、
自分を閉じ込め、
その生き苦しい檻(おり)の中から、
脱出することばかりを、考えていた。


本の栞(しおり)に印刷された言葉。
西郷隆盛が記したとあった。
カトリック系の学校に通っていた方からのいただき物で、
何となく、違和感を持ちながらも、
お気に入り、となった。


以来、事あるごとに、
自分に言い聞かせている。
「人を相手にせず、天を相手にせよ。
天を相手にして、己を尽くし、人を咎(とが)めず、
我が誠の足らざるを尋ぬべし。」


その時その時で、言い回しは多少変わるのだが、
人に左右されることなく、
自分自身の内面を省(かえり)み、
天なる存在と対峙せよ、
という意味で理解している。
わたしにとっては、救いの言葉だ。
幾度となく、窮地を脱している。


他者を理解することは、とても困難。
他者からの理解を得ることも、同様だ。
その場、その時に、どうすればいいのか。
考えすぎると、
人との関係を断ち、
自然の中で、一人静かに生きていきたいとの、
願望が大きくなる。


ぶれない自分を、求めている。
いついかなる時も、
できるだけ、同じ状態でいたい。
誰に対しても、影響を受けない自分を、
どうすれば、そういう存在になれるのか。
人がどうであれ、
自分は自分。
ひたすら天に対して、生きるしかないのだろう。
そういう想いで、生きてきた。


天に対する信頼。
天を、神と読み替えてもいいだろう。
教えがどうであれ、
見えない存在に対し、
常に共にある意識のもと、
相対峙して生きる。


禅のこころ。
微笑むことができるこころ。
静かに、それでいて揺るがないこころ。
そういうこころの自分が、理想だ。
いつでも、どこでも、だれとでも、
同じ状態で、生きていきたい。
クールという表現が、適切なのだろう。
淡々と、粛々と。
近づくでもなく、遠ざけるでもなく、
あるがままに、
自分らしく、生きていきたい。
そのためには、
人を相手にせず、
天を相手にして生きること。


春の新たな始動に困惑しつつ、
いくつもの考えが去来。
それでも、変わらぬ自分をと、
改めて、自分が求めるものを、記してみた。
クールな(カッコいい)自分で、
在(あ)りたいだけなのだ。