食す

台湾から戻って、10日あまり。
余韻に浸(ひた)るまもなく、業務に追われる。
飛んでくる球を、
必死につかんでは、投げ返す。
そういう一週間が、終わった。



投げ返しても、投げ返しても、
どんどん、飛んでくる球。
だんだん、返すのが億劫になってきた。


久しぶりに、ネタ出しに苦労している。
この数週間の経験が、
余りにも多様で、
そのどこに、スポットを当てようかと、
考えあぐねている状況だ。


特に、職場での出来事に関しては、
書きたい内容は、いくつもあるのだが、
個人情報とか、守秘義務などを考えると、
具体性がなくなり、
結局、何が言いたいのか表現できないまま、
ボケた、ゆるい文章になってしまう。


いつかは、こうした状況を乗り越えて、
自由な状態で、書き込みたいと思うのだが、
なかなか、踏ん切りがつかない。


昨夜は飲み会があり、
好きな食べ物の話題になった。
特に食が細いわけではないのだが、
食べたくないものは、食べない、みたいな状況で、
出された料理を、いくつか口にした。
そして、何が好きなのか、問われて、困ってしまった。


そういえば、最近、「これを食べたい」とか、
あまり思わなくなった。
台湾でも、そうだった。
歩き疲れて、何を食べたいのか、問われるのだが、
正直、食べたいものが思いつかなかった。

勧められるままに、食べてみた。
そして、美味しいとか、ちょっとマズイとか、
そんな会話で、終わっていた。
再度、行きたいねというお店も、いくつかあったが、
結局、ほとんど再訪はしなかった。


決して、食べ物に興味がないわけではない。
大いに関心は持っている。
自分の体を維持するためには、
何を食すれば良いのか。
そもそも、「食べる」という行為自体に、関心がある。
何のために「食べる」のか。
単に、お腹がすいたから食べるのではなく、
何のために、口から、物を入れるのかという、
「食べる」こと自体に、関心を持っている。


体に害となるものは、極力避ける、が基本だ。
自分の内に、自分の体の持続に悪影響を与えそうな物は、
なるべく摂取しない、食べない。
これが、自分自身が行きついた結論だ。
何が好きかではなく、
自分の体にとって、良い物は食べる。
好きだから、食べるよりも、
体に良いから、体が喜ぶから、食べる。
したがって、目の前にあるものが、
いま、自分の体に良ければ、食べる。
ある意味、とても単純、シンプルな考え方だと思っている。


何が体に良いのか。
それは、その時、その場で、自分の体に聞いている。
体は、いま必要な物、不要な物を、
知らせてくれる。
その声にしたがって、食べているし、
飲み物も、基本は同じだ。


改めて「食べる」ことについて考えてみると、
巷で話題になっている食べ物など、
まったく無関心の自分を発見する。

人の評価ではなく、
自分自身が、いま、ここで、食べたいものを、食す。
できるだけ、自分の内なる声に忠実に生きる。
「食べる」ことだって、
自分が、自分で判断して、行う行為。
そう思うと、昨日の問いかけへの答えが、
見えた気がした。