平戸

平戸に来ている。
台湾では神としても祭られている、
鄭成功生地で、
毎年開催されている生誕祭への参加が目的だ。



昨日は、平戸の自然を駆け足で巡った。
夕日が落ちる、大バエ灯台
眼下には、蒼い海が広がる。
手つかずの自然の中、
心地よいドライブを楽しんだ。


平戸は、オランダ人を始めとして、
海外からの客人が、
長崎来訪より前に、訪れている。
歴史の教科書に、ほんの一行、
平戸から、長崎の出島へ、移した、
といった記述があったことを思い出した。


聞けば、カステラが最初に伝えられた場所であり、
お茶の木が、栄西禅師によって、最初に植樹され、
その歴史が始まった場所であり、
サツマイモも、この地で最初に栽培された、
ということのようだ。


一つ一つが、目から鱗というか、
そうだったのかと、
驚いたり、納得したりで、
改めて、知らない事の多さを、
気づかされた。


数十年の人生で、
どこまで知ることができるのかと考えると、
たかが知れたものなのだが、
あたかも、全てを知っているかのように、
振る舞う自分が、アリみたいな存在に思えた。


平戸訪問は4度目。
40数年前に、一度来た記憶がある。
その後、次男の平戸への Iターンをきっかけに、
今回で3回目になる。
来るたびに、新たな発見があり、
その事実に、自分がいかに知らないかを、
認識することになる。



限られた人生の中で、
「知る」という行為自体に限界がある。
偶然の出会い、
必然的な出会い、
意図的な出会い。
それぞれが糸のように絡みながら、
自分の知識が編み上がる。
そして、その編み上がった布を、
自分の好みにデザインし、
身にまとっている。


「無知を知ることが、知ることの始め」
とは、昔から言い伝えられていること。
「歴史」で学んだ事実だけが、真実ではない。
ひとり一人が生きることで、歴史が作られる。
とすれば、百人百様の歴史があり、
それぞれに、物語がある。


パッケージ型の歴史認識から、
ひとり一人の歴史認識へ。
知る事への意識は、
パーソナルな関心事に変わり、
パーソナルな体験を求めて、
新たな旅を始めることになるのだろう。


団体旅行から、
小さいグループ旅行、
さらには、一人の気楽な旅へと。
個人が、歴史を学び、歴史を作る、
体験型の旅が、求められている。
いろいろと、考えさせられる平戸行だ。