生きる

週の初めに、ようやく見た。
前編と後編で、4時間を超える大作。
予告編映画の解説を通して、
メッセージの重さは感じていた。
そのためか、なかなか見ようという気持ちが起きなかった。



盆休み、意を決して、一気に見た。
その後の衝撃が、数日たったいまでも、残っている。
その気持ちを記しておくことに。


映画のタイトルは、
セデック・バレ」。
日本統治時代の台湾で、
実際に起こった「霧社事件」を
忠実に描いた物語、ということだ。


時代背景そのものに、馴染みがない。
台湾で、日本人と台湾原住民が衝突。
原住民族とは、大陸から移住した台湾人(漢民族)ではなく、
昔から台湾に住んでいた人びと。


映画で見る限り、
彼らは蛮族として扱われている。
一人前の男子となるためには、
敵と戦い、相手の首を持ち帰るのが条件とかで、
首狩り族といった表現もあった。


台湾統治の一環で、
こうした蛮族の教育を任として、日本人は進駐。

神聖な狩猟の場であり、
自分たちの領分に、無断で入り込んだ日本人に対し、
少なからず不満を持つ、原住民。
反抗するも、武力で押さえ込まれ、
伝統的な生き方から、
近代的な生き方へと、転換を余儀なくされる。


文化的な摩擦、
伝統的な生き方への回帰、
進んで日本人化しようとする人びと。
表面的には順応しているように振る舞いながらも、
頑(かたく)なに伝統に生きる人びと。


いくつかの諍いをへて、
ついには、民族の誇りをかけた反抗へと流れが続く。
武器を集め、志願兵を募り、
いつしかその流れは、
抗しがたい民族の生き方へと、
多くの若者を誘うことになる。


かなりの部分を、殺戮のシーンが占める。
これは監督のこだわりで、
できるだけ事実に基づいた描写を試みたとのこと。
中身の詳細については、映画を見てもらうことにして、
ここでは、その後の自分の心証を記したい。


たびたび考えることが、いくつかある。
そもそも、彼らは何のために戦ったのか。
守るべき民族の伝統とは、何か。
なぜ、かれらは死んでいけるのか。
こうした、根源的な問いかけ。


現実的な問いかけとしては、
彼らのような生き方は、
「鬱」のような悩みを、どうとらえるのだろう。
そもそも、鬱病などの心の病が存在したのだろうか。
「働く」という意味は、
「稼ぐ」とか、「生きる」とか、どう考えれば良いのか...。


DVDでの視聴、設定を現地住民の言葉バージョンで見た。
字幕に北京語が表示され、全編が日本語と彼らの言葉だけ。
これも不思議な体験だった。
十分にその内容を理解したという感じはないが、
「ズシン」と、自分の魂に一撃を受け、
彼らの精神(スピリット)は、伝わった気がする。


彼らが、命をかけてまでも守ろうとしたものは、何か。
彼らは、事件を通して、何を伝えたかったのか。
同時に、この映画そのものの持つメッセージとは、何か。
視聴する時や場所、年齢、性別などにより、
答えの内容は、いろいろあるだろう。


自分にとっては、
かなりエポックメーキング的な映画となった。
重たい、とても重たいテーマだが、
その重さは、おもたい「想い」であり、「思い」なのだろう。
時間をかけて、そのメッセージの意味を探すことにした。



→ 映画『セデック・バレ』公式サイト - U-PICC
→ セデック・バレ - Wikipedia
→ 霧社事件 - Wikipedia
→ 台湾原住民 - Wikipedia
→ 映画的・絵画的・音楽的より