高学歴ワーキングプア

少しショッキングな内容だった。
ある程度聞いていたが、これほどひどいとは。
学ぶこと、それが大学の存在意義であったはず。
いつ頃からか、就職の入り口になり、
4年間の大学だけでは学ぶことができなくなり、
大学院が増えた。

「末は博士か大臣か」――かつては確固たるステータスのはずだった博士。しかし、今日では、子どもが博士になるのを拒む親もいるそうです。高学歴ワーキングプアとまで呼ばれるようになったのはなぜなのでしょうか。
→ 高学歴ワーキングプアとは何か
→ 博士(はくし)が100にんいるむら

大学の在学時は学生運動の全盛期だった。
合格した大学は全共闘で封鎖され、
入学式もないまま自宅待機。
いつごろ始まるかわからない状態で始まった学生生活。


やっと始まった授業。
なんとも魅力のない講義の連続。
これって何なのか。
学ぶって、なんとつまらないことだろう。
講義自体の形骸化はすでに当時からあった。


あの当時から、どれほど変わったのだろう。
学びの府として始まった大学は、
やがて企業への登竜門になり、
大学へ行く目的も変わった。
そして、大学へ進学する学生の意識も当然変わった。


学歴〜学んだ履歴だ。
学んだ結果、ワーキングプアになったと言うことらしい。
ワーキングプアと学ぶことは関係があるのだろうか。
大学院へ進学した人は、何を学んだのだろう。
そもそも、何のため学ぶのだろう。
「学ぶ」ということ自体が、難しい問いだ。


考えていくと、深みにはまる。
今日書こうと思ったのは、次の記述に出会ったからだ。

 しかし、博士修了者の進路別内訳は、「就職者」が1万1000人(修了者の64.1%)、「左記以外の者」が3000人(同20.5%)、「死亡・不詳の者」が1000人(同9.1%)等となっています。

「死亡・不詳の者」が1000人(同9.1%)いるという事実。
大学院を終えて、その行方が知れない人がこんなにいる。
人々より多くの時間を割いて学んだ人々が、
なぜ行き先知らずの状態になるのか。
この事実をどう考えればいいのか、わからなくなった。


もしかしたら、「救いを求めきれない若者」と
なにか通じるものがあるのかもしれない。