いよいよ、Facebook?

簡単なようで難しい。
自分が、自分らしくあるということは。
人の評価とか、世間の評判でものを言う。
空気が読めない、ということへの恐れ。
ついつい、人の目を気にしている自分がいる。



だいぶ人の目を気にしたブログ内容になってきた。
年賀状への返信として、幾人かの人へブログを告知。
いよいよ、カミングアウトと出発したのだが、
気がつくと、評論家的な、客観性を持たそうと、
つまらない記事になってしまったようで。


ブログとTwitter、それにFacebookが加わって、
自分自身の立ち位置が揺れている。
昨年来から、情報発信のページ立ち上げを計画しているのだが、
位置づけで戸惑っている。
あるがままに、いまをつぶやくのはTwitterであり、
それはそれで気に入っているのだが、
次のステップが見えてこない。


中東情勢が大きく変化している。
それを支えているのがTwitterFacebookとの報道。
改めてネット革命、情報革命といった文言を思い出す。
TwitterFacebookは、あくまでも道具の一つだが、
こうした道具なしでは、今回の動きは起こらなかったのだろう。


かって、共産圏が崩壊したときのビデオやFax利用を想起した。
まだ携帯電話などが普及してないときのことだ。
ベルリンの壁が崩れ、人々が歓喜する姿をテレビで見ていた記憶がある。


あれから10数年を経て、いま中東革命の真っ直中。
テレビ演説を通して、団結や抗戦をうったえ続ける首領。
それに対し、武器ではなく、
ネットを通しての繋がりで対抗する市民。
どのような結果をもたらすのか、わからない。
それでも、そのプロセスは確実に伝わってくる。
その原動力がTwitterFacebookに代表されるネットワークだ。


そこには、あらゆる「いま、ここに」の状態が記されている。
あるがままに、人々が書き込み、拡散。
その情報を見ながら、人々が動く。
指導者がいるわけでもない。
人々の意識の流れが、歴史を動かしている。
そう考えると、自分の考えをそのまま記することの重要性を感じる。
ひとがどう思おうとも、自分はこう思う。
そういう主張こそが、重要なのかもしれない。


自分自身が感じること、思うこと。
それが表現できて、自由なのだ。
たとえ自分と異なる考えであっても、すべてを良しとする。
そうした土壌の元に、大きな意識が形成され、
しかるべき方向へ進んでいくのかもしれない。
あるがままに、道(タオ)が生じる瞬間だ。


わたしが、あるがままに、自分を表現すること。
感じるままに、その気持ちを表現すること。
その手段としてのTwitterFacebookであれば、
わたしは使っていこう。
その表現がどのように解釈されたとしても、
それは構わない。
自分は自分なのだから。


ここまで開き直れると、
欧米で拡がりを見せるFacebookが、すこし理解できそうな気がする。
人に媚(こ)びるでもなく、会社や組織にも媚びない、
自分自身を表現するツールとしてのFacebook
そう考えると、納得できる。
あくまでも主体的に使う道具と理解すべきだろう。
誰かに見られて、良く思われたいとか、
就職、ビジネスに有利になるようにとか、
何かを期待して利用すると、ズレが生じる。
使うのをためらった理由は、そのズレが嫌だったからだろう。


自分は自分。
"I am that I am."
なかなか理解できないフレーズだったが、
Facebookに必要なことは、「わたし」という存在を、
公に対して宣言することなのかもしれない。
Twitterは、単なる独り言だ。つぶやくだけ。
それに対し、Facebookは、
わたしは、こういう存在ですと、宣言するもの。
逃げも隠れもしません。
わたしは、ここにいます。
わたしは、こう思います。
わたしは、あなたではないんです。
わたしは、わたしなんです、と。





あなたと異なるから、わたしが在るのです。
あなたが在り、わたしが在る。
わたしの顔(face)として、記録(book)しておきます。
わたしの顔。
あるがままの自分の姿。
わかっているようで、わからない。


もしかしたら、Facebookは自分を映す鏡なのかもしれない。
自分のありのままの姿を映す道具。
自分の内面の思いや考えを、
そのまま映し出す道具としてのFacebook
そう考えると、ちょっとワクワクしてくるのだが。