群れる

ひとは一人で生きられない。
ひとは人をもとめ、人々に。
人々が集まると、ことが起こる。
ネット上の群れ方を考えた。

FaceBookは、学生のコンパ(飲み会)と考えるとわかりやすい。
人とのつながりを求めて参加、
興味ある人を探し、
自分を売り込むツール。
使い方によっては、効果大だろう。


しかし、疲れる。
次から次へと、「もの」や「こと」が紹介される。
友達にならないか、友達紹介しようか、
「いいね」と思うか、
コメントしないか...、とか。
興味もない話題に、無理矢理つき合わされているようで。


何事をするにしても、「許可」を求められ、
それが何なのか、わからないまま時が過ぎる。
進められたお酒を断れないような気分になる。
ここで「許可しない」とすると、
「お酒飲めません」と、相手の誘いを断るような、
後ろめたさを感じてしまう。


もう少し、内容に集中したいのだが、
次から次へと、ボタン押しが要求され、
自分が何をしようとしているのか、わからなくなる。
パーティーで、知らない人と次々と話していくように。
終わった後は、疲れだけが...。
正直、自分には合っていないと感じている。


Twitterは、スタバなどのコーヒーショップ、
あるいは、気心の知れた飲み会的な集まりか。
人を選んで集まれば、
心置きなく本音も聞けて、楽しめる。
だが、職場の飲み会的な集まりだと、
これは疲れる。
救いは、Twitterの場合、簡単に離脱できる点だろう。
フォローを外せば良いだけだ。


フォローは、100人くらいが最適との書き込みがあった。
実感として、その程度がなんとかなるように思う。
フォローする人を絞れば、Twitterは使える。
自分が興味や関心あるテーマを、
本音で書いてくれる人をフォローすれば良い。
所詮、呟き(tweet)だから多くは期待できないし、
それは筋違いというもの。
単にポツンとつぶやく中から、
自分で、何かを悟れば良いわけだ。


新しいサービスが出るたびに、試している。
Mixiは馴染めなかった。
FaceBookもいまだに、馴染めない。
LinkedInGoogle+も、使い方が見えていない。


ネットの創始期から使っているが、
いまだに続いているのがホームページの利用だ。
「ホーム」、自宅という意味。
自分が帰るところ、自分がくつろげる場所だ。
ノマド(nomad)」的な考えの人には、必要ないのかも知れない。
ひとり、静かに、自分の内面を見つめたいとき、
わたしにとっては、ホームは不可欠な場所だ。
ネット上でのプレゼンス(存在)を示すのに、
わたしはホームが必要と感じている。
これは、その人の感性の問題であり、
自分は自分、ということだろう。


それぞれの考え方を理解し、
それぞれの立ち位置で、網の目の結びとなること。
それが「網路」のあるべき姿だろう。
その結びが大きく、強く、拡がれば良いと考えている。