ビジョン

先日参加した会合。
10年後のキャリアビジョンを考えよう、のテーマ。
ビジョンは、具体的に考えるようにと。
より明確に、描くことで、達成が可能。
まずは、自分の価値観から。
それをベースに、10年後、そして5年後をと。

この手の考え方は、相変わらずなじめない。
何度となく、試みるのだが、
途中から、訳がわからなくなってしまう。


目標設定という考えも、同じような流れを辿る。
明確に、具体的に、目標を定める。
その目標に向かって、
期間を定め、その目標達成に集中する。


その通りだと、思う。
明確なビジョンや目標を定め、
そこに意識を集中することで、
それなりの成果が、得られる。
十分理解しているのだが、
こうした考えに、いまだになじめない。
むしろ、諦めに近い気持ちが強い。


小さいときから、野球選手とか、サッカー、卓球、
あるいは、ピアノやバイオリン、
世界一とか、オリンピック優勝とか、
明確に目標を設定し、
そこに向かって、ひたすら努力。
その姿は、素晴らしいし、格好いい。


いつも思うのだが、よくも小さいときから、
そうした目標を持ち、
その目標に向けて、歩めるものだと。
関心があるのは、
目標を決めるプロセスだ。
どうすれば、あれほど明確に自分の目標を決めることができるのか。
しかも、小学生とかの年齢で。


目標が決まれば、
そこへ至る道筋が見えてくる。
そして、5年、10年後の自分の姿、
自分自身のビジョンが、より明確に把握できる。
したがって、ビジョンの前にまず目標設定。
巷のビジネス書には、こうしたお題目があふれている。
何度、挑戦しただろう。
試みるたびに、上手くいかないというか、
俺はダメかという、自己嫌悪的な状況にさえ陥っていた。


何かが違う。
こうした考えの背景に、欠落しているものがあると、気がついた。
それは、こうした考えが、
目標を設定してからしか、語られていないからだ。
凡人は、まず「目標」を決めることで、迷っている。
少なくとも、わたしはこの「目標」を決めきれずに彷徨っている。
何か目標を決めても、「何のため?」という問いかけの前に、
目標が、溶けて、形がなくなってしまうからだ。


野球、ゴルフ、サッカー...。
球の大小があったとしても、
それを打ったり、蹴ったりして、
勝った、負けた、世界一って、
自分には、とても目標にはできない。


年収1,000万円、売り上げ日本一、
業界第一位、世界で始めて...。
たしかにお金は欲しいですよ。
でも、それって目標なの?
うん、それで?
いつも、 "So, what?" と、問いかける自分がいるのだ。
で、何のために、そいうことを目指すのか、みたいな。
この問いかけで、最後は空しくなる。
そうか、すべては幻想だよ。
すべては、人のこころが作り出した幻に過ぎない。
ここまで来たら、先に進めないというか、
そんなこと、どうでもいいや、という自分が出てくる。


勝っても、負けても、良いじゃないか。
決して、投げやりではなく、
自分自身の内なる声として、
目標とか、ビジョンとか、
どうでも良いじゃないか、との声が大きくなるのだ。


経済成長率、国内総生産
有効求人倍率、失業率、
世の中、目標数値だらけだ。
根拠に乏しい数値目標を設定し、
ひたすら達成を目指す。
だけど、世の中、その通りには動かない。
地震予知だって、天気予報だって、
ほとんど当たらない。


目標設定を否定するつもりはない。
必要だとは思うのだが、
どうも自分にはしっくりこないのだ。
もしかすると、こうした考え方自体が、
おかしいのでは、と感じてしまう。
う〜〜〜ん、やはり解らない。