疲れ
いろいろと、見直しが必要なようだ。
こうしたブログを書くことも、
TwitterやFaceBookへの書き込みも。
なんとなく、疲れている。
ガラガラ・ぽん、かな。
定期的に巡ってくる。
何のために、書き込んでいるのか?
ソーシャルメディア?
いやいや、そんな大したことは考えていないって。
メッセージの送信?
いやいや、それも違うな。
結局、何がしたかったのか。
振り返りつつ、昨今のネット状況などを見つめている。
政権交代。
それほど期待はしていなかったのだが、
出されるメッセージが、
賞味期限が切れた中身を、パッケージだけ変えた風で。
仕方ないのかな。
時代が大きく変わって、誰もが予測できないまま、
なんとかせねばと、考えた結果なのだろう。
本当は、誰だってわからない。
政治家だって、わからないままに、
でもさ、なんとかせんと、いかんでしょう、みたいに。
ある意味、もうダメなのだろう。
これまでのような生き方していては。
とりあえず、政治家の人に踏ん張ってもらっている間に、
次なる方向を見定めて、歩み始めなければ。
いま起こっていることは、ほとんどが想定外なのだろう。
その認識が、一番大切なのかもしれない。
想定外だから、予測不能。
要するに、誰もわからない。
正解が、存在しないということなのだろう。
過去の生き方には、学べない。
自分が、自分で考えて、
自分で結論を出して、自分で歩んでいくしかない。
まあ、当たり前の話なのだが、
こうした当たり前のことを、してこなかったから、
右往左往する人が多い、という話なのだろう。
決して、自己責任と責める気持ちはないのだが、
かといって、自分の人生を、無責任に他人に委ねてしまっても、
ということだろう。
なんとかなる。
そう思って、生きている。
そして、できれば自分と、自分を超えた存在の、
両者の関係で、生きていきたい。
そうすれば、なんとか道は開けるし、開けてきた。
ときどき、こうしたある種、宗教的な考えを伝えるのに、
抵抗を感ずる。
仕事柄、場所や内容を考えると、
なかかな伝えきれない。
それでも、人が生きるとは、そういうもので、
ある意味、生かされているわけで、
大きな、大きな力のもとに、いまのわたしがある。
そう思うのだが、現実は、それを言えないまま、
国や地方の、支援機関や制度の紹介で終わる。
もしかしたら、こうした本音を伝えきれない疲れなのかも知れない。
特定の宗教や教えに対しては、与(くみ)する気持ちはない。
しかし、自分を生かしている、
自分を存在せしめている、偉大なエネルギーの存在には、
なんとか気がつかせたいというか、
自分自身の生き様を伝えたいという思いが強い。
こうしたブログやネットでの活動も、
本来は、こうした思いが強いのかも知れない。
たぶん、そうなんだろう。
何らかの生きる印として、自分のウチにわき上がってくる思いを、
形にして、伝えたい。
なんとか、生きやすい世の中で、
みなが、笑って、幸せに暮らせるには。
そのためには、
人智を越えた、大いなるパワーを感じ、
意識の中に、意識して生きる。
もやもやする思い。
自暴自棄になり、絶望し、あてもなく彷徨っていた青春。
そこから、こうして年齢を重ね、
少しはまともなことを、言えたり、考えたりできるのは、
ずっと探し、求め続けた結果だ。
キリストの教え、お釈迦様の教え、
ヒンズー、イスラム、その他いろいろ。
求めているのは、人の存在を超えた、圧倒的な存在。
そういう存在を求めつつ、
生きてきたわけで、
それが、自分の生きる目的だったのかもと、
考える時もある。
本音で生きる。
本音を語る。
そういう時代なのかも知れない。
問題の本質を考え、
一直線に、切り込んでいく。
時には誤解され、非難されながらも。
こうした勇気を持って、自分の意見、考えを貫く姿勢。
その志に、人は動き、生き方を変えていく。
結果として、それがソーシャルな意味を持ち、
社会を、人を、変質させるのだろう。
そう考えると、これから自分がやることが、
若干わかったような、気がする。
もう少し、自分の内側を掘り下げながら、
情報発信を試みることにしよう。