教育について

長い間、先生と呼ばれながら、
意識の中で教師という自覚はなかった。
あくまでも訓練担当の講師というような意識だ。
教師と職員そして講師といった位置づけで、右往左往していた。
教えるのではなく、学ばせるという視点で20年近く過ごした。
教育が「教え」「育てる」ことであれば、
そういう視点はなかった。


「学ぶ」ということが基本にあった。
語学を学び、電脳を学んだ。
学んだことを、教える努力は少なかった。
どうすれば学べるか、その方法にこだわっていたようだ。

農の世界に触れ、作物を育てるということを知った。
植物の性格を知り、必要な栄養、光、温度、湿度といったものを考慮しつつ、
育てて、収穫を待つ。
育て、育(はぐく)むといった、
世話をし、愛情を注ぐ眼差しがそこにはある。


教育の原点は育てるということ。
自分は教育者ではなかったし、それを目指したことはなかった。
こうした立場の違いが、数年来のモヤモヤだった。
訓練から、教育に移行しなければならなかった。
語学を学び、電脳を学び、訓練を行う中で行き詰まったのが、「教育」。
先に進むには、自分自身が教育にコミットしなければ。
教え、育てるという視点から人に接すること。
それがないが故に、彼らのへメッセージが伝えきれなかった。


学校を去ってからだろう、独学の道を歩き始めたのが。
教師を求めず、自分の感覚だけで歩んできた。
確かに「人を相手にせず、天を相手にした」歩みだが、
ある意味、遠回りの人生だったかもしれない。
善し悪しの問題ではない。
しかるべき人に尋ねたら、
別の歩みが可能だったかも知れない。

そこに教師の存在があるのだろう。
人生の、学びの、先導役としての教師。
教え、諭し、育て、見守ってくれる存在。
そういう人と会えていれば、
もうすこし系統だった学びができたのかも知れない。
名をなした人々は、それなりの学びを先達から受けている。
教師と仰げる人の指導を受け、
その教師の土台に、発展開花させている。
こうした教師とのふれ合い、出会いが少なかった。
いま、自分自身が教師あるいは、教育というものを再考するにあたって、
自分の人生と重ねてかんがえると、そういうことになるのだろう。