滅私奉公

アメリカから帰国した当時、
「公(おおやけ)と私(わたし)」について考えていた。
もう、30年以上も前になる。
英語と日本語の間を行ったり来たりしながら。
そのとき出会ったのが、「滅私奉公」という言葉。
自分を捨てて、公のために生きるということ。



日本の人は、なぜ英語を話すことが苦手なのか。
読解偏重の受験英語が原因だとか、
発音が難しいとか、
日本語に置き換えようとするからだとか、
諸説があって、いまだに定かではない。


ポイントは「滅私」という考えにあるのでは、
そんなことを、ずっと考えていた。
「私」を滅する。
公のために生きるには、自分をなくすこと。
私心をなくし、公(おおやけ)のために生きる。
結果として、自分の意見を控えるように。


「滅私」意識が強い人が、英語を話したらどうなるのだろう。
英語は、まず「私」から始まる。
「私」がどう考えるのか、思うのか。
結論がさきで、あとから理由がつづく。
対して日本語は、
その場(おおやけ)の空気を読みながら、
できるだけ主語を使わず、ことばを交わす。
こころの内では「不味(まず)い」と思っていても、
その場の空気を察して、「美味しい」という。


その時の空気を感じ取り、
その場にいる人々に合わせながら、
その場に相応しいことばを発することが、
コミュニケーションの極意となる。


共通の話題作りのためには、
同じテレビ番組を見、
同じスポーツを観戦し、
同じ食べ物を食し、
同じ飲み物を飲む。
自分が楽しいからではなく、
相手が楽しいと思うものを、楽しもうとする。
すべてが「私」ではなく、「わたし達」で生きている。


主語なし会話に気がつかない限り、英語は話せない。
どんなに発音がうまくても、
完璧に文法を理解しても、
難しい単語をたくさん覚えても、
「滅私」状態では、英語は話せない。
英語と日本語の根底にあるコミュニケーションの違いがそこにある。


ながながと「滅私」について書いてきたが、
要は、FaceBookは日本に定着しない、
ということを言いたかったからだ。
「わたし」意識がない人が、
たとえ本名を使ったとしても、
FaceBookを使った自己開示は難しいのではと思う。


FaceBookに違和感を感じる自分がいる。
どうやらその違和感は、「滅私奉公」を美徳とし、
「和をもって貴し」とする社会で生きるかぎり、
超えることができないのかもしれない。


明確な自己意識を持たず、
「わたし」から話を始められない人には、
英語での会話を苦手とするの同様に、
FaceBookでの自己表現においても、
苦手意識がでてくる。
その意識が続く限り、FaceBookにはなじめない。
海外の渡航経験者の多くが、FaceBookを使うのは、
「わたし」意識に目覚めたからではないだろうか。


とりあえず、わたしはTwitterのほうが居心地はいい。
FaceBookに対しては、どうするか試行中。
さらにGoogle+は、始めたばかり。
それぞれが、当然ながら成り立ち、目的は異なる。
そのどれが自分にしっくり来るのか。
まだまだ、試行錯誤は続きそうだ。