情報発信

その昔、文字は存在しなかった。
物語や絵、彫り物などを通して、
人から人へと、メッセージを伝えた。

一生懸命に聴き、
その内容やイメージを、
一生懸命に次の世代に伝える努力をした。


やがて文字が生まれ、
その文字に意味を付加し、
文字から、メッセージを受け取ることができるようになった。


文字は、石や粘土などに刻まれ、
次の世代へと、継承された。
やがて、人は紙を作りだし、
自分の思いを記録し始めた。
その思いはまとめられ、
聖書あるいは教典などと称され、
人々の生きる指針となっていった。


教典は、人から人へと写経され、
その教本を読むことで、
人々は、生きる智慧を学んだ。


やがて人は、印刷技術を手に入れた。
数多くの情報が、書籍という形で世界中に拡がり、
多くの人々が、先達のメッセージを受け取ることができた。


時代は、デジタル革命という技術革新のまっただ中。
安価で、瞬時に、メッセージを伝える手段を、
人は手に入れた。
世界的規模とは言いがたいが、
すくなくともわが国においては、
必要な情報は、誰でもが、その気になれば、
ほぼ無尽蔵に収集することができる。


これだけ情報過多になってしまうと、
メッセージの発信者としての、
情報発信力について考えざるを得ない。


「自分」という、
この世にふたりと存在しない「自分」を、
どのように定義し、
なにを遺(のこ)していけば良いのか。


ブログという、個人の書き込み記録が、
140文字の短いつぶやきが、
さらには単なる友達同志の交流の輪が、
ネット上に大きな存在感を持ち始めている。
どのようにつき合うべきか。
もはや、避けては通れない流れの中で、
そもそも、自分は何を伝えたいのかを考えている。


始めに「メッセージありき」であって、
決して、TwitterFaceBookありきではない。
そうした意識を明確に持っていないと、
発信する情報は、やがてネットの中の濁流となり、
誰からも相手にされることなく、澱(よど)んでしまう。


記する以上は、意味のある内容を遺したい。
そういう思いで、ブログは始めた。
Mixiを知ったとき、自分には合わないと思った。
Twitterを始めたとき、よくわからなかった。
半年ちかく放置したが、
イランで政変が起こり、
そのきっかけがTwitterであることを知り、
興味を覚え、つぶやき始めた。
現在も、模索中だ。


FaceBookは、使わないとやばいといった強迫観念から、
使い始めた。
だから、Windowsと同じような付き合い方だ。
使っていないとマズイとか、
イヤだけど、仕方ないかとか、
そういう、どちらかというと前向きではない気持ちからだ。
したがって、いまだに馴染めないし、
できれば使いたくない。


人が、情報を処理する能力には限界がある。
個人差はあるが、
「普通の人」という、漠然とではあるが、
「平均的な人」の、情報処理能力の把握が必要だ。


情報発信を考える場合、
だれを想定するのかが重要になる。
誰に読んでもらいたい内容なのか。
かなり曖昧な定義だが、
自分が考える、「普通の人」をまず定義し、
その人向けに、情報発信を開始する。
それが出発点かも知れない。


不特定多数の人が見るネットの書き込みに対し、
保守的すぎると、何事も進まなくなる。
これを書くと、あの人に悪いとか、
自分の立場が不利になるとか、
考え出すと、書き込みは遅々として進まなくなる。


記述がまずかったら、謝れば良い。
間違いだと気がついたら、訂正すれば良い。
したがって、
謝罪や、訂正すれば済むような内容であるなら、
どんどん、情報発信すれば良いのかも知れない。


書籍などで書き誤ったりすると、
その訂正は、結構やっかいだが、
ブログやツイッターでやらかした誤りは、
「ごめんなさい」と、後から書き込めば済むだろう。
所詮、完全な人間なんて存在しないのだから。


そう考えると、
思っていることや感じることを、
書き記(しる)して、発信すること自体が、
貴重な第一歩となるだろう。
だから、内容をあまり気にせず、
自分の内なる声や感性を、
文字やイメージを使い、
文書という形にして、
放てば良いのだ。


「話す」ことは、「放す」ことだと、理解している。
情報発信は、
自らの想いを、はな(話、放、離)すことから始まる。
そのためには、
ある程度の思いをまとめて、
外へ向かって、解き放つことが必要だ。
勇気を持って、自分を解き放つ。
それが情報発信の第一歩となるのだろう。